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Homage to Retro Lens
Choku
6年前、昔お仕えしていた上司のご遺族から形見分けにレンズを頂いた。調べてみたらG Hologon T16㎜/F8.0(Carl Zeiss 1994年)という銘玉。「是、何だろう」という好奇心、そこから小生のレンズ収集&撮影が始まった。
Retro Lensは面白い。滲み、口径食、歪みなど現代の撮影基準では許されない描写も個性、効果として生きて来る。
「撮った画を定着させる」という意味での寫眞技術が生まれたのが1839年。爾来その写真機のレンズを開発する光学設計者達はこうしたレンズ個有の収差を消す為に血の滲む努力をして来た。ところが
完成度の高い現代のレンズに到達した結果、何処の光学メーカーもコンピューターで設計して更に機械研磨する為、殆ど似た代物が生まれてしまった。そして小生みたいな臍曲がりは「味の無い、つまらないレンズ」と見向きもしなくなる。先人の努力には申し訳ないが、世の中便利になると失うものも出て来る証左である。
さて、小生は暇があれば手元にある銘玉を愛でている。これらのレンズは生まれてから何十年と経っている。今、小生の手に入る迄の間何十人と所有者を経て来ている。モノによっては両世界大戦の戦火さえも経て来ている。そうしたドラマを想像し乍、街に出て撮影する事も一興であろう。
現在、入手した銘玉は未だ約550本、レンズコレクターとしてはまだまだ初心者であるが、レンズ沼の深みに嵌り乍、撮影道に精進する日々である。
◆独断と偏見で選んだ銘玉15本
◎Hologon 15㎜/F8.0 1970年―Repair Parts
(Carl Zeiss)
Dr .Erhard Glatzel設計。1968年獨逸フォトキナで発表。全く歪曲のない魚眼玉の登場に業界を驚かせた銘玉。実売は1970年、製造本数は400~1600本と言われている。日本製との競争に敗れ1972年に名門Carl Zeissは民生用カメラ分野から撤退、その混乱から、その頃の記録が散失している為、詳細は不明。但、この玉の我が国への正規輸入品は14本しか無い事が判明しており、希少玉である。
後玉が極端に出ている為、フルデジタルカメラへの装着は不可能とされ、現実、カメラとレンズを壊した例を多々、見聞されるが小生が入手した未開封のRepair Parts玉は難なく装着出来、無限遠も出る。
3群3枚のTripletとされているが2群は異様な達磨形状。製造難から造れば造る程、赤字になり撤退を早めた一因にもなっている。
Carl Zeissは技術第一主義の会社故、過去にも製造コストを無視した銘玉を度々、登場させている。同じ銘玉でも「民生用ではコストありき」の米国玉と違う技術屋魂を感じ、魅力に感じる。
強い口径食と「暗部に墨を一滴加えた」と表現される高コントラストが被写体を浮き上がらせる。
◎Cooke Orthoplan 24㎜/F2.0 1900年―Military use
(Taylor&Hobson London)
Taylor&Hobson社の記録にない玉であるが刻印された特許番号から銘玉Opicと判明。H.W.Lee設計。4群6枚W-Gauss構成。大口径玉の源流である。開放でもフレア少なく、絞るとコントラストが高まり合焦部は大変シャープ。合焦易い。近接ボケ滲み出る。口径食強い。恐らく軍で複写用として使われた玉。
◎Delfinon 50㎜/F2.8-1950年代
(Old Delfto)
阿蘭陀の専ら業務用光学機メーカー。阿蘭陀で光学産業というと意外な気もするが、恐らく西欧で当該産業を持たなかったのはバチカンとサンマリノ位と思料。3群4枚Tessar構成。合焦部は非常にシャープ。逆光ではフレアー生じる。周辺部ではボケ流れる、線細い。光線状態によっては「枯れ色調」という独特な色表現をする。市販品ではあるが生産本数極めて少ない。某著名コレクターの旧蔵品である。
◎Medallion 50㎜/F2.3―1890年
(Dallmeyer London)
ペンダントトップ撮影用暗箱に搭載。記録には有るが市場に殆ど出て来ない謎の玉。研磨した銀貨に感光薬を塗布して直接焼き付けたと言われている。中心解像度は非常にシャープであるが周囲は3群4枚Pezval特有の滲みが乗る描写。この時代の玉には珍しくターレット型の絞機能が付いている。
◎Zunow 50㎜/F1.1 ⓵ 1953年―Prototype
(帝国光学)
濱野道三郎設計。5群9枚Sonnar構成。後玉が極端に出ている為、別名「ピンポン玉」と言われる。カメラによっては装着不可能。1943年末、日本海軍は黎明偵察機用カメラレンズの開発を帝国光学へ命じる。そして完成したのが1953年。その間、顧客たる日本海軍は消滅したのに開発を続けたのは凄い執念。約5万枚の設計図面を要したと言われている。1953年に登場した最初のロッドはマウント強度に難があり、これを改善して更に寄れる様にしたのが当該玉。ヘリコイドレバー形状、最短撮影距離が市販品とは違う。高性能過ぎて、高額故に全く売れず「ピンポン玉」の実売数は100本前後と言われている。完全な手作りで個体差が激しい。採算度外視した開発を続けた結果、同社は1961年倒産、ヤシカに吸収される。合焦部はシャープ乍軟らかい描写。線細く、解像度は極めて高い。開放で収差によるハロ、フレアー盛大。この玉の登場で我が国光学機業界では大口径戦争といわれる熾烈な開発競争に突入する。
◎Raptar 51㎜/F1.5―1963年―Military use
(Wollensak Rochester)
米国ネバタ核実験場におけるオシロスコープ観測用に開発された玉。その特性上、近接域で極めて精密な解像力を示す。開放から合焦部キレ良く立体感得られる。絞るとフレアーが出る。軍機の壁の為、詳細は不明であるが4群6枚W⁻Gauss構成。
◎Appareil Dubroni NO1 70㎜/F3.5 1864年―Custom Made
(Darlor Paris)
巴里にあったレンズ工房DarlorのJules Bourdin設計。世界初のインスタントカメラWet Plate Cameraに搭載されていた。3群4枚Pezval玉。当時の硝子乾板は1枚撮ると暗室に戻らなければならなかったが、この暗箱には現像液が入っており屋外で定着出来る画期的なカメラ。世界中のカメラ博物館が目玉の展示品として探しているらしい。交換レンズは5種あるが当時の撮影用途は基本、肖像用であった為35㎜換算で超広角に該当するNO1の製造本数は極めて少ない。現在3本所蔵するが特注玉故、各々描写は無論、鏡胴形状も違う。約160年前とは思えない画像のクリアさとシャープさに驚かされる。暗部も確り解像する。Pezval独特の像面湾曲の為、周囲は流れるが、それも味の内。
◎Kleinbild Plasmat 70㎜/F2.7―1931年
(Roland)
レンズコレクター仲間で「打ち止め」と言われる銘玉が有る。Kine ,Macro Plasmat 75㎜/F2.7(Hugo Meyer)という2本である。これを入手したら、これを超える銘玉は無いという究極の玉である。レンズ遊びを始めて未だ6年、此処で終わっては面白く無いので小生は避けて来た。生産本数は相応にあるので金に糸目付けなければ何時でも求められるという事もある。ところが偶然にもその上の銘玉を入手してしまった。設計はDr .Paul Rudolph。Carl Zeiss技師長で1896年Planarを発明、その後、Tessar,Protarという同社に莫大な利益を齎した発明をした天才である。しかしDr. Paul Rudolphにとって生涯のテーマはPlanarの完成度を高める事。Hugo Meyerに移籍して造ったのがKine ,Macro Plasmatである。更に1931年、自らRoland社を起こし、そこで生まれたのが此のKleinbild Plasmat 70㎜/F2.7である。弱小レンズ工房の為、此の玉は殆ど知られておらず生産本数も僅かであるがDr. Paul Rudolphにとってこれぞ完成形の銘玉である。高解像度でスッキリし乍軟らかい描写。グルボケや流れは無い。
◎Imagon 75㎜/F2.8 1921年―Prototype
(Rodenstock Munchen)
Dr. Heinrich Kuhnon設計。本来、大判用の長玉として有名な玉であるが1921年に小型カメラ用として75㎜と90㎜を10本づつ試作した記録があり、その1本。レンズ構成は「色消しレンズ」と言われる古典的な1群2枚。レンズ本体には絞が無く連根状に穴の開いた金属製の4種フィルターを被せる事でF4.5-11.5になる。フィルターが無いと強いソフトフォーカスレンズになるが逆光に極めて弱くハロが強烈に出る。F4.5時、点光源入ると向日葵状のボケが出る。前後ボケ綺麗。絞っても硬くならない。被写界深度深い。明暗差有る被写体向き。
◎Rosher-Kino-Portrait 75㎜/F2.3 1928年―Custom Made
(Astro Berlin)
全米撮影監督協会会長のCharles Rosherが大作映画「Tempest」製作時「女性を綺麗に撮る」だけの目的で自ら設計して特注した3群4枚Pezval構成のシネ玉。75㎜と100㎜、収差の強さでNo1~3計100本は全量Colombia Picture社に納品。因って市販されていない。開放では合焦部はシャープ乍周囲は流れる。大きなボケが被写体を浮き上がらせる。絞れば全体的にシャープになる。2~3m先のポートレート域がSweet Point。線は太い。No1が一番大人しくNo3が暴れ玉となっているが当時の職人の勘で造られている為、描写効果が逆転するなど個体差の激しさに魅了されて現在5本所有。目指せ、残り95本Get!!
◎Apochromat 75㎜/F2.0 1950年
(Kinoptik Paris)
Edgar Hugues設計。4群6枚W-Gauss構成のシネ玉。仏蘭西では高級シネ玉メーカーとしてAngenieuxやSom Berthiotが有名であるが、その上をいくのがKinoptikである。同社は注文生産を旨としておりApochromat 75㎜/F2.0は現在でも造られているが、コンピューター製造に変わり、優等生になった結果、味は無くなっている。手造り時代の此の玉、合焦難ではあるが、一度ピタリと合えば非常に高い解像度を示す。開放では明部に軽いハロを纏い、背景には独特のボケが生じ、被写体を立体化させる。世界中の映画撮影技師が憧れるのも納得出来る。
◎Portrait Dogmar 75㎜/F2.0 1918年―Prototype
(Goerz Berlin)
Emil von Hoegh設計。4群4枚Speedic構成。当時、独逸ではNacht=暗視レンズ開発が盛んに行われていた。名門光学メーカーGoerz Berlinが試作した1本。同社は第一次世界大戦後の不況により1925年Carl Zeissに吸収された為、商品化されなかった。Carl Zeissでは自社で開発したBiotarをNachat玉として商品化している。近接時、激しい収差が産む立体感が素晴らしい。ポートレート域は無論、近接域も合焦易い。
◎Maugey Aine 90㎜/F3.2 1850年代製造―Custom Made
(Maugey Aine Paris)
Pierre Maugey設計。1850年代、巴里に存在した事以外、全く記録の無いレンズ工房。恐らく当時の高等遊民が特注した暗箱用3群4枚のPezval玉。暗箱の特性上、90㎜という短焦点玉(35㎜換算22㎜相当)は極めて稀。カメラ技術が佛蘭西と英国で発明されたのは1839年、それから僅か11年でこれだけのレンズが登場した事には驚かされる。ピンは非常にシャープ乍収差を纏いポートレートに最適。近~中域で魅惑的なボケ生じる。
◎Thambar 90㎜/F2.2 1934,1935,1936年
(Leitz Wetzlar)
Max Berek設計。発売当時440円(当時山手線内庭付一戸建相場1000円)もした高額玉。約10年間に2984本製造されたが、その多くはLeitz社のFlag Ship玉として著名な写真家へ贈呈された。その一人木村伊兵衛翁は「日常の顔」「那覇の芸者」といった女性ポートレートの名作を此の玉で撮っている。3群4枚、2群を2枚貼り合わせとした特殊なレンズ構成。中心部を塗り潰した専用フィルターでソフトフォーカスを描写するがフィルター無くても開放では十分に効果が出る。手作り故の1本1本描写の違いに魅了されて小生は4本所蔵。
◎Telgor 135㎜/F3.5 1947年―Prototype
(Goerz Wine)
Goerz3社(Berlin,NY,Wine)の中で唯一、同社は小型カメラ用玉を販売していない。終戦直後試作だけに終わった1本。極めてシャープで高コントラスト乍軟らかい描写。合焦易い。難はPrototypeの為、計量化を考慮せず極めて重い事と寄れない事。
◆憧れの銘玉
撮影玉が生まれて約180年、数万種類の銘玉が生まれて来た。欧米ではレンズ史という学問がある。特にCarl Zeiss、SchneiderについてはYellow Book、Blue Bookという電話帳サイズの研究報告書が定期的に出版され、レンズのシリアルナンバーから何月何日、何処の工場の誰の監督の元、何の目的で何本造ったのかが克明に記されている程である。学問が有れば新たな発見が産まれるものである。それ故、未知のレンズは未だ未だ有り、それとの出会いもレンズ沼の醍醐味である。何時か入手したい「憧れの君」を幾つか記したい。
◎Elmax 50㎜/F3.5 1924~1925年
(Leitz Wetzlar)
Max Berek設計。Leitz初の市販カメラLeicaA極初期モデル500台に固定されていた。David Douglas Doncan、三木淳氏等が愛用。後継のElmar50㎜/F3.5が3群4枚Tessar構成であるのに対して3群5枚(3群を3枚貼り合わせ)という特殊なレンズ構成。合焦部鮮鋭度鋭く、口径食が強い独特の描写をするとされる。中古相場は約500万円。金に糸目をつけなければ入手出来る点では後述の玉よりハードルは低い。但「市場に出廻っているElmaxは偽物が多い」と言われておりリスクも大きい。
◎Simular 50㎜/F0.75―1944年―Prototype
(東京光学)
丸山修治設計。陸軍から暗視兵器目的で開発命令。10本試作した玉。光学兵器の割にイメージサークルは24✖24と小さい。戦後、米軍が関心を示し、東京光学から全量買い取ったが後に毎日新聞社が借り出し、南極観測取材で使用した。
◎Planar 50㎜/F0.7―1968年―Custom Made
(Carl Zeiss)
Dr Erhard Glatzel設計。1966年獨逸フォトキナに登場した際、「驚異の大口径玉登場」と騒がれたが結局、市販しなかった。「F0.7」は光学理論上の限界値であり、製造難故採算合わないという判断と思料。
そもそも此の玉は米国NASAからの特注品。Aporo8号(1966年)が月の裏側の漆黒闇で撮影する為に6本購入。重いレンズの為、その儘、月に置いて来たと言われている。又、Stanry Kubrickが「Barry Lyndon」(1975年)を製作した際、蝋燭の1本の炎で女性を撮る目的で3本求めている。残る1本はCarl Zeiss博物館に展示してある。入手する為には将来、月旅行が可能になった時、拾って来るか、ルパン3世に頼むしかなさそうである。